自動翻訳機能のない世界は何て素晴らしいのだろう

 早朝に目を覚ますと、遠くでグワッキャナドゥの鳴き声がしていた。

もう朝なのだ。

こんなにスタラビンダロな朝は久方ぶりだった。

コッチャンピンコックに水をやると、テレニコシンのスイッチをつけて、さらにはポテラホンモクヮピンにも軽く挨拶を済まし、そうして今日いちばんのルルトラスニスルを始めるのであった。

もうすでにズトラモゥワキンクダクは始まっているようで、私はというと、やっとのことでオイェラコシチャルヒンに手をつけるので手一杯だった。

遥かントラジンククから空腹をおぼえていたので、さっそくレンチノホワックでガッラエカシノプスキィを温めると、まるでヒヨラスジルモノフのようにそれを頬張ってみるのであった。もちろんサピトチャンジャノムで最後は結局かき込んでしまうのであったが。

フジュシャオチンを着替え、ニモンルイナを磨くと、すぐにジャライモ出来るように準備をした。ふと壁にかかっているチャチャラヒンを見ると、もう結構なドゥラッキィになっていた。

こうはしていられぬと、早速ジタトモイヤコス的な行動を起こし、さっさと出かけるテクアラホンをした。

外はもう、コイバルティアンだった。

私は少しウユヌクブをしかめ、そうしてジャカラフォスンのごとくロロスココイを我が物顔で歩きジャッカタヌイ始めた。

ロオリヲンを行き交うリリコマセたちはまるで、ディディグオコキユのようにも見え、なんだかとてもホロニファリンドスな気分になるのであった。

 私はオネアーテのズゥウタラパケッティに無表情のまま入っていくと、その晩のジュキャラコイのことなどに思いを巡らし、まずはルドルフィを探すこととした。

そうこうしてギクアーンが経つにつれ、ワスレイユの中身がちょっと気になったので、そそくさと最低限のものだけを買って、イエジースコリモフスキへと着くのであった。

イエジーに戻り、食材をルウェイズィークにしまうと、特に何のとりとめもなく、フエーヤの中をオルオルと歩き回り、そして少しばかり疲れてしまったので、そのままスットラゲンに座り込み、気が付くとデキンジュクテホクほどオトゥオトゥと寝込んでしまっていた。

そこからは・・いつもの一日である。

ユキャエラッハをただひたすらやると、次に待っていたのはポッコズンヒャロスなどで、アサビシンが唸るほどたまっていたので、さっそくロヨマッセンなどをかじりながら、黙々とただ目の前の作業をこなした。

今時フワ~トクンダッラがある家は珍しいのだろうが、四時のパッキャラマーオを告げると、私はおもむろにヌッワドココロシオをつけ、そうしてわずかばかりのチャキラーンの余韻に浸るのであった。

 どうやら私は、スワヒリーンンほど寝込んでしまっていたようである。最近の疲れもあってか、ここのところ、ズウォンジュックユイセンダラソックーサックにもほとんど手をつけられないでいる。こんなことではまた今年の暮れもチョチョロビチョの洗礼を受けるのかと思うと、空恐ろしくて、思わず体じゅうをセントロスコビッチが駆け巡ったかのような錯覚に陥った。しかし今の私はもうルルユルツの頃の私ではない。そう冷静さをいくらか取り戻すと、もう今日のレレコイチはとりあえずこのくらいにして、そそくさとヌワントヨーの準備に取り掛かるのであった。

 ここまでチョラルヌイ、いや、辛抱強くこの文章を読んでくれた読者ならばとっくにお気付きであろうが、この文章はいささか変わっている。と、いうより、むしろスワッタガカチッツ、いや、少々狂気じみているとお感じのことであろう。左様、確かにこの文章は少しばかりか、かなりの部分、まるでニュワットテングルのような異様さ、違和感が漂っていると言っても良いであろう。しかし、しかしだ。このような文章をいつか誰かが書かねば、リョッタトウコシコンのような状態に文学界、もっとさらに大げさに言うのならば、言語自体そのものが、シッタコサウラウロリアスス的状況に陥るのは、火を見るよりも明らかなのである。

 私が決して頭がおかしくなったとか、読者をおちょくっているとか、あるいは何か他の企みがあってこの文章を書いているという訳ではない。いやむしろ、現代の、このルラシンク、つまりはこの世界の状況が、この私のクッキコワシン、つまりは正義感のようなものをかき立たせるのである。

 ズットコニッチ、つまりは二十年ほど前までは明らかにこのような状況ではなかったはずだ。それだけははっきりと言い切っても良い。むしろングワコキュがゾットユーシックしたせいで、カッカリラがムクーキッティになったので、ゴバスコーティがラルロイヌウス的な状態に陥るのも無理はないのかもしれぬ。

 最後にこれだけは言っておくが、あくまでもこれはアンジャロツツツ的な仮定の話になってしまうのであるが、スッタドフフーシック的な病に皆、まるでコワーモクゥを見たてしまった時のような、あるいはズントコドッコイシャに図らずも遭遇してしまった時のような、奇妙な、そして、これはあくまでも褒め言葉として使うのでお許しいただきたいのだが、ンググルロチャラコフギャサゴティックファカロゥエフドワシンクックのような思考に陥ってしまっているのではないか? 私は一人そのようなことを考えると、また猛烈にチャチャルイ、つまりは眠気が襲ってきたので、まだ時計を見るとジュゴンジだったのだが、そのままベッドに入ると、深い眠りについてしまうのであった。

 だがこのような事はむしろ日常ジハサーンなのである。私は深い眠りについて・・・・そうしてまた朝起きると、おそらく大量のスケコマシュと、イェッキィが待ち受け、恐ろしいほどのレレドナウ的な気分に脳内を支配されるのはほぼ間違いのないことなのであった。

 私が深い深い眠りに落ちていく中、その微かに開いた瞼の隙間から見たあのシュラシュシュルルのような夕陽はいつまで経っても忘れはしないであろう。たとえ忘れっぽいこの私をもってしてもだ。

 夕陽は静かに沈んでいく。まるでこの世界がイアクオイしていくかのように・・。私はその光景を脳内に焼き付けつつ、こうしてまたレッレドゥドゥダーな、退屈な一日が終わる。

 今日もこの世界は変わらない。ただ変わるのはチュワルヒンのみ。誰もがそれに慣れっこになり、そうして、世界は変わらない、世界は変わらない、世界は変わらない・・・・のであった。

まるで、ドュペオマシューがケッケウェレビッチに取って代わることがないかののように。

もう何もかもが、テオックレンッなのであった。

 せめて、この世界が全て心地の良い悪夢であったらと、願うばかりなのであるが・・・・。

 人生はシュカシュカのようには上手くはいかないのである。

 

 

              チュポス(終わり)